東京ディズニーリゾート物語

ここは、永遠に完成しないブログ。東京ディズニーリゾートのBGS、設定、歴史について語ります。

"東京ディズニーランド"という場所。

 東京ディズニーランドは、アメリカ国外進出第1号のディズニーパークです。
 世界唯一のフランチャイズ経営のディズニーパークとして1983年4月15日にオープンしました。

ミッキーフレンズ

 2019年度の入場者数は1,791万人
なんと、アメリカにある2つのディズニーランド、マジックキングダムディズニーランドに次ぐ**世界3位です。

 そんな世界有数の人気テーマパーク、東京ディズニーランドはどのようにして生まれたのでしょうか。

第1章;
 ✑東京ディズニーランドの正体

 日本へのディズニーランド誘致構想は、意外にも平成時代にはほとんど姿を消してしまった私鉄系遊園地に端を発します。

この私鉄系遊園地とは、大手私鉄会社が
遊園地を訪れる人たちによる乗客増
沿線をブランド化、イメージアップを図る
沿線の居住者を増やす
鉄道収入以外での利益増
 のため、大正〜昭和初期にこぞって建設した遊園地のこと。
 これによって都市社会の生活スタイルが作り上げられたといえるでしょう。

 これを日本で初めて行ったのは、小林一三率いる阪急電車でした。
 1911年に娯楽施設『宝塚新温泉』を開業、施設内に開設した劇場が人気を博します。これが宝塚歌劇団の前身に当たります。

阪急沿線御案内
1931(昭和6)年後期〜1932(昭和7)年前期発行。
阪急電車の駅は角の丸い四角形で表されている。

 首都圏の私鉄によって多く作られた私鉄系遊園地ですが、現在ではそのほとんどが閉園。中には駅名に名前を残しているものもあります。

東急
二子玉川園」
 1922(大正11)年〜1985(昭和60)年
西武
としまえん
 1926(大正15)年〜2020(令和2)年
小田急
向ヶ丘遊園
 1927(昭和2)年〜2002(平成14)年

 千葉の私鉄会社京成電鉄も、『谷津遊園』という遊園地を経営していました。

谷津遊園パンフレット(1936)
1936(昭和11)年の谷津遊園のパンフレット。
1925(大正14)年開園。東京ディズニーランド完成直前の1982(昭和57)年、役目を譲るようにその歴史を閉じた。

 1958年、そこにバラ園を作る計画が持ち上がります。そこで、時の京成電鉄社長・川﨑千春はバラを買い付けるために渡米。その際ディズニーランドに訪れた川﨑は感激し、「ぜひディズニーランドを日本に」と考えるようになります。

 翌年、川﨑は友人であった三井不動産江戸英雄社長にも声を掛けてレジャー施設『オリエンタルランド』を計画。1960年7月には両社と朝日土地興業を親会社として、株式会社オリエンタルランドを設立します。
 創業当初のオリエンタルランドは、上野の京成電鉄本社の5階の片隅を間借りしていました。固定電話はなく、スペースは机3つほど、社員はたったの3人でした。

 ここからも、東京ディズニーランド京成電鉄グループの私鉄系遊園地という位置付けだったことがわかります。

第2章;
 ✑幻の手賀沼ディズニーランド

 川﨑千春はオリエンタルランド社長を兼任し、さっそく計画に着手します。ウォルト・ディズニー・カンパニーとの交渉を始める傍ら、建設用地として手賀沼に目をつけました。

 なぜ手賀沼だったのでしょうか。
それは、東京駅から約1時間とアクセスが良く、水辺があることで富裕層が別荘を構えるなど、人気のリゾート地だったためです。白樺派*1の面々をはじめ多くの文化人が移り住み、『北の鎌倉』とまで呼ばれていました。

白樺派
我孫子武者小路実篤邸での一枚。
後列左3人目から武者小路実篤柳宗悦志賀直哉
手賀沼は柳の民芸運動の拠点ともなった。

 しかし戦後になると、高度経済成長期によって手賀沼の水質が悪化。そこで競艇場の誘致が持ち上がりましたが、治安悪化を危惧した住民から反対の声が上がり頓挫してしまいます。
 そこで、起死回生の策として考えられたのがディズニーランドの誘致でした。1959年のドイツ・ミュンヘンIOC総会で東京五輪が開催決定したことで、誘致計画は更に熱を帯びていきました。

手賀沼ディズニーランド
「広報あびこ」1961(昭和36)年1月号。
モザイクを入れるべきか迷った。

 1964年の東京五輪までの開業を目指して、全日本観光開発を設立。同社は京成電鉄のみならず千葉県東武鉄道後楽園スタヂアムなどが出資し、会長には前東京都知事の安井誠一郎が就任しました。
 1962年には起工式が行われるなど、順風満帆と思いきや、全日本観光開発の経営が悪化。手賀沼の開発資金が底を尽きてしまいます。さらに、手賀沼周辺の宅地開発によって水質は悪化する一方。川﨑千春は候補地を変えざるを得ませんでした。

COLUMN①;
 ✑日本初のディズニーランド!?

 川﨑千春がディズニーランドの誘致に奔走していた1957年。実は、日本で公式公認のディズニーランドが開園していました。

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 それは『こどもの夢の国!楽しいディズニーランド』。5月5日の「子どもの日」に合わせた期間限定の催しで、日本橋三越屋上に開園しました。
 朝日新聞厚生文化事業団の主催によるもので、後援は東京都大映大映がディズニー映画の配給権を持っていたからこその実現でした。

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 この企画の目的は、1955年にオープンしたアナハイムのディズニーランドを紹介することにありました。アトラクションとしては、
❯ディズニーランドのパノラマ
夢の国ファンタジーランド未来の国トゥモローランド冒険の国アドベンチャーランド西部の国フロンティアランドの模型
❯ディズニー機関車
❯魔法の鏡
❯動く漫画
❯メリーカップ
❯ディズニー漫画館
 が設置された、と朝日新聞は伝えています。

第3章;
 ✑黒い水に苦しんでいた浦安

 川﨑千春が、ディズニーランドの誘致候補地として次に目をつけたのは漁村・浦安でした。
 東京内湾の江戸川(今の旧江戸川)河口に位置し、遠浅の海を活かた海苔・貝の養殖で知られた浦安。戦後には東京湾屈指の漁獲高80億円〜150億円を誇っていました。

✑黒い水事件

 しかし、昭和30年代になると江戸川に流れ込む工場排水や生活汚水によって漁場の汚染が目立つようになります。それに追い打ちをかけたのが、1958(昭和33)年の黒い水事件でした。

 本州製紙(現在の王子製紙)江戸川工場が新たに導入した、原木のヤニを処理する機械『セミケミカル・ドラムバーカー』から放出された黒褐色の工場排水が、川に垂れ流されるようになります。

 1958年4月1日以降、江戸川がどす黒く濁り、浦安の沿岸から葛西沖一帯にかけて魚介類が死滅しているのが目立つようになります。関係官庁や本州製紙に排水中止を訴えても相手にされず、ついには浦安の養殖場の貝の8割以上が死滅。浦安の漁業関係者は困窮に苦しむ事態になります。

 1958年6月10日、それまでの不誠意な対応に耐えかねた浦安の漁業関係者1,600人本州製紙江戸川工場に乱入。警察機動隊や装甲車が出動し、漁業関係者側は8名が逮捕、重軽傷者を108名も出す事態となってしまいました。

KuroiMizu

 この事件は、高度経済成長期の歪みとして全国で多発する公害の先駆けとなり、
公共用水域の水質の保全に関する法律
工場排水等の規制に関する法律』の制定や、江戸川下流域の再生事業として葛西臨海公園の整備が行われることになりました。
 しかし、京葉工業地帯の工場用地埋め立てや、黒い水事件による汚染で浦安沖の漁獲高は激減してしまいました。

第4章;
 ✑交渉に奔走した髙橋政知

 黒い水事件を経て、浦安の漁業関係者のなかには将来も漁業を続けていくことを不安視する者も少なくありませんでした。そこで、オリエンタルランドは埋め立て用地確保のため漁業権の放棄損失補償を漁業関係者と交渉することになりました。

 交渉人として白羽の矢が立ったのは、髙橋政知。旧東京帝国大学卒のエリートながら、虚栄心や驕ったところがなく、豪放磊落で酒豪という評判でした。気性の荒い海の男たちとの交渉役として適任だと考えた三井不動産の江戸英雄社長の紹介でオリエンタルランドへ入社。髙橋が入社した当時のオリエンタルランドの社員はわずか3名。実働部隊は髙橋1人でした。

 当時は浦安漁業協同組合が2つに分裂していました。それでも、髙橋は直接漁業関係者の家を訪ねて交渉をまとめ、夜には漁協の幹部を一流料亭に接待して誠意を見せて酒を酌み交わして腹を割った交渉を行ったのです。
 その結果、髙橋の人柄に惹かれた漁師たちの心を掴むことに成功します。その一方で、当時経理を担当していた加賀見俊夫は料亭からの高額な領収書に頭を悩ませていたそうですが…

 1962(昭和37)年3月2日、髙橋の交渉の甲斐あって浦安町総合開発審議会と浦安漁業協同組合は漁業権の一部放棄埋め立て賛成を決定します。
 これを受けて同年7月、オリエンタルランドと千葉県の間で『浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定』を締結。いよいよ埋め立てが始まります。

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第5章;
 ✑埋め立てがはじまる

 1960年7月に株式会社オリエンタルランドを設立した川﨑たち。手賀沼ディズニーランドの失敗を受け、千葉県浦安沖に大規模レジャー施設・住宅地・商業施設の開発を計画していました。

 戦前から、東京湾を埋め立てて工場を誘致する計画があったものの、当時はまだ農業県に過ぎなかった千葉県には建設資金はありませんでした。そこで、時の千葉県副知事友納武人三井不動産江戸英雄社長の協力を取り付けます。

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1943(昭和23)年撮影
戦前の千葉県浦安沖。

 1958年には市原地区の埋め立てに着工。ここでは千葉県が埋立権を取得して工事を実施する代わりに、進出企業に費用を納めさせる『千葉方式』を採用することで、余裕のない県の財政に負担をかけずに埋め立てを行うことができたのです。

 市原地区で埋め立て工事を受注し、実績を上げた三井不動産。1964年には、千葉港中央地区の埋め立て(185万坪)も任されることになります。このときは、新たに『共同事業方式』という開発方式を採用しました。

 これは、
①埋立権は千葉県が取得
②総事業費の1/3は千葉県が、
 2/3は三井不動産が負担
③造成地の1/3を千葉県が保有し、
 2/3は三井不動産に分譲
④造成工事は分譲先の企業に委託、
 造成費用を分譲代金にする。

 といったもので、千葉県と三井不動産が1:2の割合で共同事業として埋め立てを進めました。

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1966(昭和46)年撮影
埋め立てにより美浜誕生。

 同1964年には、オリエンタルランドも千葉県の委託を受けて、260万坪にも及ぶ埋め立て工事を開始しました。ですが、自前のオフィスもなかったオリエンタルランドが工事費を払い切れるはずもありませんでした。

 そこで、委託している業者に工事費を立て替えてもらい、埋め立て予定の土地を担保に銀行から融資を受けて工事費に充てることで浦安沖を埋め立てることができました。1970年には舞浜地区の埋め立て工事が完了しました。

 しかし、1980年1月に千葉県と結んだ『東京ディズニーランド事業推進に関する覚書』の「やむを得ない場合は、千葉県の許可を得て遊園地利用予定地を住宅地などに転換して処分できる」という条件が後々ネックになるのです。

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1970(昭和50)年撮影
埋め立てにより舞浜誕生。

第6章;
 ✑ライセンスを巡る因縁

 浦安沖の埋め立て工事を始め、『ディズニーランド誘致計画』が本格的に動き出したオリエンタルランド。あとは、ディズニー本社から国内ライセンスを得るだけです。

オリエンタルランド

 1962年にも非公式でディズニー社に協力を要請していたオリエンタルランド。ですが、『ある理由』で誘致の難航が予想されていました。

 そこで、誘致交渉と並行して独自のレジャー施設であるオリエンタルランドも検討し、1974年には『オリエンタルランド基本計画』が千葉県に承認されました。

OrientalLand
メインテーマは『すばらしい人間とその世界』。
ホールエリア・ファッションスクエア・プールやホテルを備えた東洋一の総合施設として計画された。

 ところが、海外のテーマパークの視察をするうちに、ディズニーランドを誘致するほかないと決断。
 1974年2月に正式誘致を申し入れ、同年6月には川﨑千春社長自らディズニー社でドン・タータム社長と会談。その場でも来日要請を行いました。

 同年7月、オリエンタルランドはディズニー本社に"Oriental Land Feasibility Study Report 1974"『オリエンタルランド実現可能性研究報告書』を提出します。首都圏に位置し、東京駅から10㎞圏内にある千葉県浦安市の立地をアピールしました。

 すると、オリエンタルランドの親会社三井不動産のライバル三菱地所もディズニーランドを誘致する計画を発表しました。ここに、ディズニー社のライセンスを巡る熾烈な誘致合戦が勃発したのです。

三井と三菱

 明治期から安田財閥も含めて三大財閥と並び称され、日本の産業発展を支えてきた両社。
 越後屋で知られる三井高俊が江戸時代に興して幕府御用商人となって以降、明治政府からの資金要請に応え政商の座を確立した三井財閥

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『東都名所 駿河町之図』(初代歌川広重筆、1830〜44)
駿河町(現中央区日本橋室町)にあった、呉服屋の三井越後屋(後の三越)。 現金掛け値なしの商売で人気を博した。

 土佐藩で商事部門を任されていた岩崎弥太郎が海運業に進出、西南戦争において軍事輸送を任されたことで政商の座を確立した三菱財閥

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『三菱の七ッ倉』(三代目歌川広重筆、1883)
郵便汽船三菱会社が江戸橋に建てた煉瓦造りの倉庫群。

 1889(明治22)年の三池炭鉱払い下げ競争入札でも両者は激しく争いました。ここで三井が三菱を下したことで、三井物産三井銀行三井鉱山の御三家を抱える三井財閥は『日本最大の財閥』と呼ばれるようになりました。

 ですが、太平洋戦争に敗れた日本は1946年から連合国軍による占領統治が始まります。
「財閥が軍国主義に制度的に支援した」と考えていたGHQ*2財閥解体を指示。これが両社にとって重くのしかかりました。

 しかし、三菱グループは1954年に再結集に成功。三菱銀行の資金力をバックボーンに重工業部門で力を取り戻すことができました。
 その一方で、三井グループは1961年に再結集。さらに、三井銀行が分裂してしまい、資本金を失って弱体化。石炭から石油へのエネルギー革命の波にも乗り切れず、前述の三井三池鉱山は1997年にひっそりとその役目を終えました。

三菱の計画した『ディズニーランド』

 1970年に大阪府吹田市千里丘陵で開かれた大阪万博。『人類の進歩と調和』をテーマに掲げて6,420万人もの来場者を集めて大成功を収めました。これによって大型アミューズメントパークに多くの企業が興味を示すようになりました。

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 三菱地所も例外ではなく、ディズニーランドの日本誘致を計画。ディズニー本社に提案したのは、富士山麓でした。富士スピードウェイ周辺の土地をディズニーランド用地として提案したのです。

 1974年12月4日、ディズニー本社の首脳が来日し、帝国ホテルでのプレゼンテーションが行われました。
 そこでオリエンタルランドは当時まだ珍しかったサロン付きバスで移動し、ヘリコプター3機を用いて直接上空からの視察を実施。まだ湾岸道路もJR京葉線も開通していなかったものの、「都心からの近さ」や「海と川に囲まれた非日常性」のアピールに成功します。

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ヘリコプターで埋め立て地を視察する視察団。
川﨑千春社長(右端)自ら同乗して熱意を伝えた。

 2日後の12月6日、ディズニー本社の視察団は浦安を選びました。これを以てオリエンタルランドによるディズニーランドの正式誘致が決定し、基本合意が結ばれました。
 これは川﨑千春が初めてディズニーランドを訪れてから16年後のことでした。

 2019年に東京ディズニーシーメディテレーニアンハーバーにオープンした、「ソアリン:ファンタスティック・フライト」。キューラインでゲストを夏は涼しく、寒い季節は暖めてくれるアトラクションのスポンサーは、空調システムを手がける三菱グループ新菱冷熱工業が務めています。遺恨はもう残っていないかもしれませんね。 東京ディズニーシー® | オフィシャルスポンサー | 新菱冷熱工業株式会社

COLUMN②;
 ✑夢の国に憧れた興行師

 オリエンタルランドがディズニーランドの誘致交渉で最大の障壁となったのは、ある興行師の存在でした。
 ディズニー社とオリエンタルランドのあいだで交わされた正式誘致決定から遡ること13年。ディズニーランドに憧れて、夢の国『奈良ドリームランド』を作り上げた人物がいました。その男の名は松尾國三

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 早くに父を亡くし、家計を支えるため9歳で旅芸人となった苦労人で、15歳にして興行師として独立。カナダやアメリカで歌舞伎を公演して人気を博しました。また、1954年には松竹の依頼を受けて大阪歌舞伎を再建するなど経営センスを発揮しました。

 1950年代後半、開園間もないディズニーランドを訪れた松尾はそのクオリティに感激。日本に誘致しようと、ディズニー本社を何度も訪問します。
 『その時が来たら力になる』と社交辞令の回答をしていたディズニー本社。しかし、技術者を連れて再び訪問した松尾の熱意に心打たれたウォルト・ディズニー

 松尾にディズニーランドの技術・ノウハウを無償で提供し、遊園地を建設時にも技術者を派遣させました。
…とされていますが、基本的な遊園地経営について教えただけとも言われています。

NaraDreamLand
2006年に惜しまれつつも閉園した奈良ドリームランド
今は廃墟マニアの聖地に。

 ウォルトの教えをもとに、松尾は1962年に『奈良ドリームランド』、1964年には『横浜ドリームランド』を開園しました。ところが、完成したそれは本家ディズニーランドの質の悪いコピー品のような出来でした。

 ウォルトが技術提供をしたのは、日本にディズニーランドを作るためではなく、あくまで松尾が独自の遊園地を作ることに協力するためでした。後日、ドリームランドの資料を見たウォルト・ディズニーはブチ切れ。
もう二度と日本人を信頼するな!」と語ったとか…

 そんな事情もあり、オリエンタルランドの現会長・加賀美俊夫はかなり交渉に苦労したと述懐しています。

第7章;
 ✑ディズニー本社の事情

 1966年12月15日、ウォルト・ディズニーがこの世を去ります。1971年に開業予定だった『ディズニー・ワールド』建設中のことでした。

 これまでも世界各地から海外進出の話が持ち込まれていたものの、ウォルトの残したプロジェクト『エプコット』を実現させるため、海外進出どころでなかったウォルト・ディズニー・カンパニー。

 ウォルトの夢見た実験都市・エプコット。

 WEDエンタープライズ*3でも、海外進出チームは少人数でした。そこで検討されていた本命候補はヨーロッパであり、日本はあくまで第2候補でした。

 何度断っても、日本から毎週電話がかかってきます。
「全額日本負担が条件と言えば諦めるだろう!」
しかし、ディズニー本社の予想に反してオリエンタルランドはその条件を承諾。東京ディズニーランドが作られることになりました。

その契約内容は、
45年間の契約
・ロイヤリティはチケット代の10%飲食代の5%
・土地買収費用、建設費はオリエンタルランド持ち

 という、日本側にはかなり苦しい条件でした。
その一方で、ウォルト・ディズニー・カンパニーの直営でないため、ディズニー本社はリスクを負わず、ロイヤリティーだけが入る美味しい契約を長期間にわたって結ぶことができたのです。

 1974年には正式誘致の基本合意を結び、建設予定地がディズニーランドを建設・運営するのに適しているのか、検討作業が始まりました。

OrientalDisney
1975年8月にWEDエンタープライズによって作成された検討資料。

 第1フェーズは1975年1月に開始され、10月には『オリエンタルディズニーランド構想』としてまとめられました。その結果、千葉県浦安地区がディズニーランド建設に適しているとされ、とそれに基づくサイト開発プランが示されました。

 幾度かの交渉を経て、1976年6月には第2フェーズ検討作業の契約を締結。ここでは具体的なデザイン設計が行われました。第2フェーズでは1年以上をかけて協議と条件交渉を続けました。

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 英語に堪能な髙橋政知が交渉にあたったものの、内部の対抗勢力やディズニー本社と衝突。何度も日米を往復し、幾度も交渉決裂寸前まで行ったといいます。それでも粘り強く交渉を続け、1977年3月には正式名称が『東京ディズニーランド』に決定しました。

 ついに1979年4月30日カリフォルニア州バーバンクのウォルト・ディズニー・カンパニー本社で『東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約(基本契約)』が調印されました。ここではパーク設計、建設、運営に関する内容が盛り込まれており、いよいよ開業に向けて大きな一歩を歩み始めました。

TokyoDisney
オリエンタルランドの髙橋政知社長と、
ウォルト・ディズニー・カンパニーのカードン・ウォーカー社長。

第8章;
 ✑京成の不調

 ディズニーランドの正式誘致を勝ち取り、契約交渉が始まったころ。オイルショック*4によって高度経済成長期が終わりを告げ、オリエンタルランドの親会社である京成電鉄の経営が悪化します。

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 京成電鉄社長を務めていた川﨑千春は、オリエンタルランド社長を兼任して推進したディズニーランド誘致のほかにも、京成グループの事業多角化をはかりました。

 新たに京成沿線内外の不動産投資やホテル経営を始めたものの、そろって不振に。本業の電鉄事業でも新東京国際空港(成田空港)へ路線を伸ばしましたが、反対運動の激化*5により開港が遅れてしまいます。

 川﨑千春は京成電鉄の経営危機に専念するため、1978年にオリエンタルランド社長を辞任。2代目社長には髙橋政知が就任しました。

 もともとディズニーランドにさほど思い入れはなかった髙橋政知。日本誘致の夢を熱く語る川﨑千春と対照的に、漁業権交渉が自分の仕事だと考えていました。ところが、携わるうちに浦安への愛着が生まれ、国民を幸せにするものを作りたいという思いが強くなったのです。

こころの産業

 ディズニー本社との間で契約された条件のひとつが、「建設費はオリエンタルランド持ち」でした。ですが、数百億円にも上る建設資金は思うように調達が進みません。

 しかし、友納武人知事の後任である川上紀一知事は『東京ディズニーランド誘致』を公約に掲げて当選。オリエンタルランドに全面バックアップを約束しました。
 その在任中の1979年4月、沼田武副知事は髙橋社長を連れて日本興業銀行みずほ銀行の前身)へ直談判。

 日本興業銀行は、東京ディズニーランド・プロジェクトを『こころの産業』と位置付けました。全国の金融機関に協力を呼びかけた結果、1980年8月に22の金融機関からなる協調融資団が結成されました。  

第9章;
 ✑1983.4.15

 1981年4月から、いよいよ東京ディズニーランドの建設が始まります。髙橋はどんなにコストがかかっても、クオリティを妥協しないことをディズニー社に要請。

ConstructionTDL

 アトラクションなどは、1955年に開園したアナハイムのディズニーランドをそのまま導入しているものの、マイナーチェンジが施されているものもあります。

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 総事業費は当初の予定の1,000億円を大きく上回り、1,800億円を超えました。

TokyoDisneyOpeningDay

 1983年4月15日、アメリカ国外初・東洋初の東京ディズニーランドがオープン。あいにくの雨で、オープニングセレモニーはワールドバザールで行われました。
 当時オリエンタルランドの相談役に退いていた川﨑千春は、グランドオープニングセレモニーに出席して涙ぐんでいたといいます。

 東京ディズニーランドは日本人の心を掴み、開園1年足らずの1984年4月2日には来場者数1,000万人を突破。オリエンタルランドが三菱に委託した経済効果調査によると、初年度では1兆4,835億もの波及効果を生み、大成功を収めたのです。

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*1:同人誌『白樺』に寄稿していた理想主義の作家ら。学習院OBが多かった。

*2:連合国最高司令官総司令部。 太平洋戦争後の日本を占領・管理するための最高司令部として1945年〜1954年のあいだ東京に設置。

*3:ディズニーランド建設のため、ウォルト・ディズニーが設立した極秘企業。今でも、ウォルト・ディズニーイマジニアリングと名を変えてディズニーパークの企画・デザインなどを担っている。

*4:1973年10月6日に、イスラエルアラブ諸国のあいだで四次中東戦争が勃発。アラブ諸国イスラエル支持国への石油輸出を禁止したため、日本もそのあおりを受けて石油価格が急騰。物価上昇に苦しんだ

*5:三里塚闘争。羽田が手狭になったことから、成田市に新空港建設を決定。騒音を危惧した地元住民らが反発。友納武人千葉県知事も建設を推進して中核派に目をつけられたという